Bro.
俺が4歳の時、母親の陣痛が始まったので病院に付いて行った。
口に入れたばかりの大きな飴玉(忘れもしない、ミルクの国)を小さな喉に詰まらせ、
苦しみ抜いた末に気を失っているうちにこの世に生まれ落ちたのがうちの弟である。
それから30年が過ぎたこの暑い夏の日に、
俺が遥か9,000キロ離れたアイスランドでその雄大な自然の中「天国のようだ」なんて言っているその頃、奴は死んだ。心筋梗塞、一瞬のことであったらしい。
天国に行ったかどうかは定かではない。
そんなわけなので、実の兄弟なのに俺は奴の最初の瞬間と最期の瞬間を知らないということになる。
7月の中旬の話だ。
以後、俺は奴の死について想いを巡らせる事となる。
最期の瞬間に何を見たのか。何を思ったのか。どんな苦しみだったか。
駆けつけた母の顔を、今際の際に奴は見たか。
ひとしきり想像した後に考えるのは、その人生について。
どんな風景を見ていたのか。どんな世界を生きたか。
俺は奴の生活拠点に行き、時間の許す限りそこで日々を過ごしてみた。
いわば他人の生活の追体験だ。同じ場所で同じ寝具で寝起きし、そこでの無音の夜を、
近所の赤子の泣き声を耳にした。間違えて組み立てられた本棚。冷蔵庫に残されたままのビール。
生活の跡を観測し、晩年周りにいた人物と会い対話し、俺は「きっと幸せだったであろう」と結論づけた。
ところで、人ってのは都合のいいもので。
生きてる時よりも死んでからの方が相手のことを考えるようになるものだ。
勝手に思い巡らせて、勝手にどんどん影響を受けていく。
そうやって誰かのことを言わば取り込んで生きていくんだろう。
